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中興開山「貞蓮社源誉上人普光観智国師存応慈昌大和尚」坐像

木造観智国師坐像

第十五世(中興開山)貞蓮社源譽上人慈昌存應普光観智國師大和尚
元和6庚申11月2日遷化 世壽七十七歳

※宇高良哲著「観智国師存応上人伝」文化書院刊(ISBN978-4-938487-55-3)より
詳細は同書をご参照下さい。

出生と得度

 天文十三(1544)年、由木左衛門尉利重の次男として、武蔵国多摩郡由木に生まれた。由木氏は鎌倉時代から源氏に仕えた土豪である。名を「存応」と称した。
存応上人十歳の時、母に連れられ、時宗であった当寺に入山。蓮阿上人の元で得度、出家し「慈昌」という僧名を授与される。

修学と遊学

 当寺にて時宗の修学を学び、後に岩瀬「大長寺」(鎌倉)に入寺、浄土宗白旗派(現在の浄土宗)の修学に励む。後に、増上寺の第十二世に入山した。

徳川家康公との邂逅

 天正十八年八月、家康が江戸城に入るというので、この様子をみようと老若男女が群集した。このころ増上寺は近在の竜の口にあり、住持の存応も門前に出てこの様子をみていた。

馬上の家康が門前にさしかかると、どうしたことか馬がとまって進まない。左右をみわたすと門前に一人の僧侶が立っている。家康は、あそこに立っているのは何という僧侶かと近習に尋ねさせた。

僧侶がいうことに、寺は浄土宗、名は存応だと答えた。馬上で聞いていた家康は近習が報告しないうちに、それでは「存貞の弟子の存応か」と尋ね、馬から下りて増上寺に立ち寄った。

存応上人はおおいに喜んで茶の接待をしたが、そのとき家康は、「明朝自分一人で参詣し斎をともにしたい」といった。存応上人はまさかと自分の耳を疑ったが、万が一来るかもしれないと思って用意しておくと、家康は約束どおりやって来た。存応上人は喜んで鹿菜の斎を出した。

そのとき家康は「自分が今朝、斎をねだったのは理由がある。大将の身分で菩提所のないのは死を忘れるのと同じである。先祖代々の菩提所は三河の岡崎大制寺であるが、江戸にはないので増上寺を菩提所にしたい」と頼みこんだ。

すると存応上人はただ涙を流すだけで返事ができなかった。

「どうしたのか」と家康が尋ねると、「昨日入府したりばかりなのに、このような沙汰があろうとは思いもよらなかった。その上、私のような愚僧が菩提所の住持になるということは、何とありがたいことであろう」といって涙がとまらなかったという。

家康も感悦し、「それでは師檀の契約に十念を授けてくれ」といい、家康は存応上人から十念を授与されて帰城した。その後家康は増上寺を平川口に移したが、城の要地が狭くなったため、再度慶長三年に芝浜に移したという。

こうして、存応上人は住寺である増上寺にて家康公と出会い、家康公は増上寺を菩提所として、護持することになった。

観智国師号の勅許

家康公は存応上人に国師号が下賜されるよう、運動を行なった。家康公は、申請を行ない、慶長十五年五月十九日、存応上人に「普光観智国師」の国師号が勅許された。これは、家康公が菩提寺である増上寺をいかにして盛り立てようとした証拠でもある。

国師号勅許の後、当山は浄土宗に宗旨替えとなり、国師六十九歳の寿像が当山に納められることになった。

家康公の葬儀

元和二年、駿府にいた家康公は病気になり、病状は次第に悪化していった。四月頃、家康公は枕辺にいた家臣に、死後の遺体処理や葬礼について遺言した。

「遺体は久能山に埋め、葬儀は増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に納め、一年過ぎたら日光山に小さな堂を建てろ」とした。

四月六日、存応上人は弟子を連れて、病床の家康公を見舞った。
四月十七日逝去、遺言に従って、遺体は久能山に移された。
一ヶ月後の五月十七日から三十日まで、増上寺にて家康公の葬儀が修行された。

晩年

中風を患っていた存応上人は弟子がつきそい、一切を切り盛りしていた。また将軍秀忠は医者を遣わして、治療に努めたが効果はなかった。

死期を覚った存応上人は、家康公同様、将来のことを遺言にしたためていた。
元和六(1620)年十一月二日七十七歳で遷化した。

観智国師の伝説

「浄土宗全書」第19巻466頁(摂門「三縁山志」より)

http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J19_0466A02&okikae=法臺寺

元祿十七申年の秋、米津淸三母堂、萩園、初茸かりの爲とて、當所の近村長久保原に、米津氏知行所遊はれしか、俄に雨ふり來て雨 宿りせん所もなかりしに、鐘鼔の聲聞ゆるをしるへに尋ゆかれしに、あやしき草庵に老僧の念佛するあり

從者も此庵に雨を凌き、同音に念佛せし程に、やかて空晴わたりて日は西山にかけ傾きければ立歸らんとする時、僧はいか成人そ、と問はれしに、答て法臺寺に靈像いまして、衆生を利益し給ふありかたさに、此あたりに住て念佛の行者を守り侍る也。君早く生死の苦海をいとひ、淨土の樂峯に登り給へ。極樂に參るには念佛に過たる事なし、と示すを聞て、とうとさ限りなく覺へて歸られけるか。

あくる日、又結縁せんとて其所に至られしに、草庵も跡形もなく老僧も見へざりけれは、いぶかしさにあたりの人にありし物語して 問れけれは、答て云、法臺寺に安置せる國師の御影より、より遊戯して諸人の急難を救ひ玉ふ事有。

その僧も國師ならん、と母堂すくに法臺寺に參り、尊像を拜するに、昨日の僧の姿にたかはざりけれは、身の毛いよ立、感涙し、恭敬念佛して家に歸られしか。

しかの趣を米津氏につけて、田地そくはくの課役を除きて、當寺に寄進し、勇猛の念佛者となられけるとそ、米津氏も此靈驗に感心し、常に國師を崇敬供養せられしか、其後家運大に開けしとなむ。

(参考)米津家(米津は「よねきつ」「よねきづ」「よねつ」などと呼ばれますが、公式な系図では「よねきつ」となっています。)米津家は三河国米津村(現愛知県西尾市)出身の徳川家直参の旗本です。徳川十六神将図にも描かれた名門で、その跡を継いだ米津田政(初代)は江戸町奉行となりました。二代田盛の時に加増されて1万5千石の大名となり、大坂定番に就きました。三代政武の時に久喜藩主(埼玉県久喜市)、七代通政の時に長瀞藩主(山形県東根市)となりましたが、前沢・門前・神山の東久留米市域の村々は江戸時代初期から幕末まで米津家の領地でした。

「くるめの文化財」平成18年10月第22号「東京都東久留米市教育委員会」発行より

※一般公開は致しておりません。