開山「他阿真教上人」坐像

第二世(開山) 辨財智他阿真教大和尚
文保三(1319)年一月二十七日遷化 世壽八十三歳
※高野修著「時宗教団史」岩田書院刊(ISBN4-87294-277-9)より
詳細は同書をご参照下さい。
当地は、荒川水系で新河岸川の支流である一級河川「黒目川」を有している。そのため、旧石器時代、弥生時代の土器も発掘され、比較的初期から人の生活、往来があったと思われる。
奈良朝廷は、新羅の僧を武蔵国に配置し、新羅郡を置いた。新羅郡は平安時代になって新座郡(爾比久良)と改称された。この頃から当地を新座と呼んでいたようである。
新座郡の中心に片山郷があり、片山氏が開発領主として統治していた。片山氏は源頼朝が武蔵を掌握した1180年頃、その旗下に入った。
鎌倉幕府の街道整備及び惣村の発達により、人馬の往来が盛んになる中、真教上人は徳治元年(一三〇六)九月から翌年春まで当地に逗留したと推定される。後に当山の礎となりました。
一遍上人
「捨聖」と言われた時宗開祖の一遍上人は、一人の弟子も持たず、「南無阿弥陀仏」の名号に最も価値があるとの考え、賦算を続けられていた。それは、自己の修行、他人への伝道のための遊行であった。
誕生
真教上人は、嘉禎三(1237)年生まれ。家系や出生地などは一切不詳である。
一遍上人より二歳年長である。
時宗第二祖として法統承継
一遍聖の没後、真教はその後継者として立った。しかし実は、一遍聖は教団を形成してそれを永続させる意図はなく、したがって後継者も定めていなかったのである。(中略)そこで残された真教たちも、一遍聖入滅の悲しさのあまり、自分たちも念仏を唱えながら臨終を迎えようとし、近くの丹生山へ分け入った。
しかし淡河(河)の領主の淡河時俊の訪問によって思い直し、真教は一遍聖の後継者として立って時衆を指導し、教団を確立して、一般の衆生の救済に乗り出す決心を固めたのである。
他阿真教上人坐像
どのような経緯で当山に尊像が奉納されたのかは不明である。恐らく、第二祖として教団を率いていく意志の現れとして、逗留地である、当山に奉納したのではないかと推定される。
尊像は、胸前で両手を合掌する等身大の木造坐像で、中風を患っていた他阿上人の晩年の風貌を写実的に表現し、深い人間性をたたえている。
尊像は寄木造、玉眼、彩色が施されている。十四世紀後半、南北朝時代の特色を残す貴重な肖像彫刻である。
※一般公開は致しておりません。